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代表質問 村山祥栄議員(2017年2月議会)

今上天皇退位後は京都へ

さて、このたび、今上天皇が譲位されることが方向性としてほぼ確定をして参りました。
京都では、皇室を京都にお迎えをするということを大黒柱に双京構想を策定がされており、これまでも京都市では双京構想実現に向け研究会を立ち上げ、文化庁の京都誘致など積極的に取り組み、本年度の予算議案においては文化首都京都の実現を重点政策の第一に掲げ、文化力を基軸に日本を元気にする取り組みに予算を捻出頂いております。
しかし、今、この双京構想の実現は大変難しい局面に突入致しました。
 と申しますのも、この双京構想の骨格は、皇室の京都移転であり、有識者懇話会での議論にもあるように具体的には秋篠宮殿下に京都にお住まい頂きたいということでありました。しかしながら、このたびの譲位で、秋篠宮殿下は皇太弟(こうたいてい)といったお立場になられ、所功先生によれば京都にお招きをすることは事実上困難になるわけです。
 そんな中、陛下に京都にお帰り頂きたいという思いは、明治二年の行幸啓(ぎょうこうけい)に出られて以来、京都の町衆の長年の念願でもありました。
 高御座(たかみくら)と呼ばれる玉座が京都御所に残されていることや、陛下のお住まいをさす御所は六箇所のうち三箇所が京都にあることは言うに及ばず、京都は1200年の都という言葉が示すとおり、日本のふるさとであり、皇室のふるさとであり、皇室とともに王朝文化、宮中文化を育んできた街です。
 それは東京へお移りになった明治以降にもみることが出来ます。ドナルド・キーン氏によると、明治天皇も在任中、京都へお戻りになりたいという意向を強くお持ちで、その延長線上で、東京での造営が決まっていた明治天皇陵も京都・伏見桃山の桃山御陵へと変更されました。
昭和天皇におかれても、敗戦処理内閣である東久邇宮内閣で近衛文麿副総理が昭和天皇のご退位は避けられないとの状況下にあって、京都御室の仁和寺を具体的なお住いとして検討されたという経緯もあります。このように、譲位が検討されるたびに、京都はご譲位後のお住まいの候補地でありました。
また、通常、上皇のお住いを「仙洞御所」と呼びますが、既に仙洞御所は京都御苑にあります。これらは、京都が譲位後のお住まいとして極めて正統性をもった場所であることを物語っています。

左京区には八瀬という皇室に縁の深い土地があります。ここに住む人々を八瀬童子といい、長年天皇が移動するときに乗る籠を担ぎ、天皇陛下の側近として雑務に従事する與丁(よちょう)と呼ばれる職についてきました。明治元年に東京への行幸への従事はもちろん、先の大喪礼では葱花輦(そうかれん・輿)、即位礼の時には鳳輦(ほうれん)という輿を担ぐ大役も務めておられます。その歴史は古く、後醍醐天皇の比叡山逃避行をお守りしたところに始まり、長きに渡り陛下にお仕えした八瀬童子は国名を許され、地租課役(ちそかえき)と呼ばれる税や労働奉仕は永代にわたり免除されてきました。そうした特権は、実に平安時代から昭和20年まで続いてきました。皇室との関わりは、現在も深く、行幸啓の出迎えに御所へ赴くと、陛下は旧知の八瀬童子に気軽にお声かけをされると言います。
また、京都の伝統産品のひとつである京菓子は日本菓子の草創(そうそう)でありますが、これは、皇室という王朝文化の中で育まれ、長年禁裏に献上され続けてきました。現在も、宮中行事のひとつである歌会始に使われる上菓子は、かつての禁裏御用達業者による京都の上菓子仲間が今も形を変え、京都より献上されています。御題菓奉献使者は早朝八坂神社常盤殿でお祓いを受け、奉献菓を持って宮中へ参内(さんだい)、侍従長を通じて、その年の歌のお題をお菓子にした御題菓を両陛下へ献上され続けています。
このように京都の町衆と皇室はいまだ密な関係にあります。

昭和天皇崩御の際には、侍従長(じじゅちょう)より直々にかつて続いた先述の八瀬童子による與丁(よちょう)制度を復活させてはと打診があったともいいます。遠く離れた東京でのご奉仕は事実上困難との判断から八瀬童子会は丁重にご辞退されたと聞いておりますが、こうした伝統も京都であれば復活させることも可能です。
伝統産業はいうに及ばず、一見宮中と何の関係もなさそうな京野菜ですら、宮中に献上するために、めずらしい野菜や種を栽培し、他はない品質の高い野菜を作り続けてきた結果、今日の京野菜があります。このように、宮中文化を軸にした日本文化の再興も京都ならできます。

そもそも、今日まで京都御所はいつでも活用出来る様にという前提で維持されてきました。
東京では一から上皇のお住まいを建設するとのことですが、耐震改修もされた京都大宮御所ならば、多少の改修で十分お住まい頂けるものと考えております。
上皇として京都にお住まい頂いた暁には、歌会始や明治二年京都御所で始まった講書始などの宮中行事、園遊会や叙勲の勲章伝達式なども是非京都御所や迎賓館などを活用して、伝統を重んじ京都で開催頂いてはいかがでしょうか。明治6年に廃止になった五節句などの宮中行事を復活させ、京都御所内に大量に眠る皇室ゆかりの品を展示する施設を開設するなど、日本文化の再生も京都が担えるかもしれません。

宮中祭祀に詳しい国際日本文化研究センターの山折哲雄名誉教授は、
「陛下は、皇太子時代の1981年、平安時代の嵯峨天皇(9世紀)に象徴される“文化天皇”こそが戦後の象徴天皇のあり方だろうと発言されたこともありました。重責から解放されるわけですから、今度は皇室の文化の“ふるさと”をゆっくり味わっていただきたい」と発言されています。また、皇室と国民の在り方についても、
「現在の皇居は周囲に深いお濠があり、敷地は森に覆われている。自然と国民が天皇を仰ぎ見るかたちになり、どうしても一神教的な趣があります。
 これに対し京都御所にはお濠はなく、本願寺など多数の仏閣や、安倍晴明の墓のような道教の史跡も近辺にあり、多神教的な空間になっている。庶民の生活の場とも“地続き”です。だからこそ京都人は長く、親しみを込めて『天皇さん、天皇さん』と呼んできました。」とも発言されています。

今上天皇の京都移転は150年に渡る京都人の念願であるとともに、再び京都に都として華やぎを取り戻し、京都の文化は再び花開き、それは日本文化の発展に大きく寄与するものです。
併せて譲位に伴い発生する即位の礼ですが、京都市では即位式は東京で、大嘗祭は京都でと言っています。即位式は規模が大きすぎて京都では難しいというのが言われていますが、御所以外で大々的な即位式が出来る場所はありません。紫宸殿の前にずらりと並び大王朝絵巻をやるべきです。世界へ日本文化、京都をアピールする絶好の機会になることはもちろん、これを機に途絶えつつある伝統、技術の継承が実現します。これは伊勢神宮の式年遷宮でも強く意識されていることです。文化の再興にはきっかけが必要なのです。是非併せて誘致に向け検討を進めるべきです。
 明治の行幸啓に続いて京都にあった全ての宮家、公家は陛下のお供として東京へ移った当時、唯一京都に残り宮中文化の維持発展に取り組んだ冷泉家の冷泉貴実子さんは、「陛下がどうお考えになっているかは分からない。でも京都がありますねんとメッセージを発するのは今しかない」と強く仰っています。
京都が日本の役に立てるときがやってきた。
なればこそ、挙市一致団結をして、お迎えできる準備とその機運作りに早期に着手すべきではないでしょうか。
 我々は地域に根付く地域政党として、時間が掛かる署名活動を先行して現在展開しております。戦後、長らく再建がなされなかった吹上御所も国民の募金活動から再建が実現した経緯もございます。天皇の地位は主権の存ずる日本国民の総意の基づくと憲法にあるように、市民、国民からこうした機運が高まることも重要なことだと確信をしております。
また、議場にいらっしゃいます先輩諸兄におかれましては、国政との太いパイプを通じ、様々な形で声を届けていただきたいと存じます。
市長におかれましては、府や関係団体と連携し、声高らかに歓迎の意を表し、政府に対しても、その声を届けて頂きたく存じます。
 いずれにしましても、平成は30年までと言われ、正式に譲位が決定した後、速やかにお住まいをはじめとした課題が動き始めます。風雲急を告げる状況です。それぞれがそれぞれの役割を持って、速やかに受け入れに向けた機運を醸成すべきです。最終的な判断は皇族や宮内庁、政府首脳においておこなわれるべきものでありますが、常に譲位の舞台であり続けた京都がその大切な役割を果たせるということを示すこと、そして京都を含めた選択肢の中で、最良のご判断がなされることが大切なのであります。
百四十有余年の時を経て、京都は再び皇室との縁(えにし)が結ばれる。
我々京都市民は門川市長を先頭にそれを歓迎しようではありませんか。
 どうぞ宜しくお願いします。


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